TOKYO RAIDERS
太平洋戦争で日本本土を初めて空爆した
16機のアメリカの爆撃機ドゥリットル隊の軌跡
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日本軍の真珠湾奇襲は、眠れる獅子を目覚めさせてしまったとよく言われます。米軍首脳部は、退役していたジミー・ドゥリットルを復帰させ、日本空爆を命じました。これが日本の破局へのカウントダウンのはじまりとなりました。ドゥリットルは、飛行機レース入賞の常連で、アメリカでは有名人でした。
作戦は、空母ホーネットで日本近海にまで近づき、陸軍爆撃機ノースアメリカンB25ミッチェルを発進させて日本を空爆、そのまま中国の飛行場に着陸するというものでした。ドゥリットル隊は空母の甲板から離陸できるように短距離発進を練習し、実戦に臨みました。ところが発進予定海域より大分手前で日本船に発見され、やむなく、1942年4月18日午前7時20分、ドゥリットルを1番機に、約1時間かけて全16機のB25は日本に向けて発進しました。
ドゥリットル隊は超低空で日本本土に侵入、東京、横浜、川崎、名古屋、神戸を空襲、そのまま中国に飛びました。しかし、全機とも燃料切れで、不時着水か墜落。乗員はパラシュート降下しました。総員80名のうち、墜落・不時着水時に3名死亡、4名重傷、そのうち1名が片足切断、8名が日本軍の捕虜となり、機長など3名が空爆の責任をとらされて銃殺刑、1名が病死。8番機がソ連領に落ちた以外は、中国の海岸か内陸に落ちました。
一方、日本側の被害は甚大でした。死者88人、重軽傷者461人、全・半壊、全・半焼家屋286戸。しかし、それよりもなによりも、米国に本土攻撃を初めてやられた日本と、真珠湾以来の鬱屈した気分を、空の英雄が爽快なことをやってのけたという心理的効果を得たアメリカという明暗が、その後の戦局の帰趨を決めました。
その後、アメリカは、日本を徹底的に焼き付くすための焼夷弾M69と、航続距離が長くて、日本の迎撃機が届かない高空からM69を大量に落とすことのできるB29を開発しました。その結果が、大量殺戮をめざした原爆でした。