370年も植民地だっだ「悲情城市」台湾
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台湾がヨーロッパの地図にはじめて登場したのは16世紀半ば、ポルトガルのホーメンによる地図です。台湾にはもともと統治者がいなく、原住民と、そして中国人と日本人からなる倭寇のアジトでした。豊臣秀吉や徳川家康が台湾領有をめざしたこともありましたが、あまりにも何もないのであきらめています。
そして、1602年、ジャカルタにオランダの東インド会社が設立され、インド洋、太平洋の支配をもくろみ、1624年に台湾を征服します。国民党政権時代も含めると、このときから約370年に及ぶ台湾の植民地の時代がはじまりました。
その後、オランダを駆逐した明の鄭成功、清による台湾支配が続き、日清戦争で清が敗れて、その補償として台湾が日本に割譲されそうになったとき、一瞬、台湾人による台湾民主国が建国されました。が、5ヶ月で日本に制圧されます。これが、21世紀に間近になるまでの、台湾人による唯一の政権です。そして、日本の支配は50年に及び、島のすみずみまで日本文化がしみ込んでいきました。
日本の敗戦とともに、日本の台湾支配は終わりました。同時に中国本土では、それまで共闘して日本と戦ってきた共産党軍と国民党軍が、中国支配をめぐって内戦を繰り広げ、国民党軍は敗れ、大挙して台湾に逃れてきました。
台湾人は、中国からやってきた連中を外省人(がいしょうじん)、自分たちを本省人(ほんしょうじん)と呼んで外省人を敵対視しました。というのも、外省人の横暴に目が余ったからです。台湾語を解す外省人は多いのですが、本省人にはほかの中国語がわからずかなり不利でした。
映画「悲情城市」(侯孝賢監督、1989)のなかで、本省人と外省人は見かけではわからないので、本省人が外省人を判別するために日本語で語りかけていました。これは日本統治時代の名残りで、皮肉にも本省人は日本語が解り、外省人は日本語を解さなかったからです。外省人である国民党軍に逮捕された本省人は、留置場で日本語の歌を歌っていましたが、彼らを繋ぐ絆が日本でした。
しかし、あまりの外省人のやりたい放題に怒った本省人は、1947年に蜂起しました。これが、2・28事件。これは、国民党の蒋介石による大弾圧・虐殺を生み、蒋介石は、1947年、全土に戒厳令を敷きました。戒厳令はなんと1987年まで約40年続きます。これだけ長い戒厳令を敷いた国はほかにはありません。
1988年、当時の国民党総統蒋経国の死去で、副総統の民進党、李登輝が初の野党出の総統に繰り上がり、1996年の国民の直接選挙で、李登輝が再び総統に選出され、民進党が第1党となり、国民党一党独裁体制がやっと終わりました。
2008年、国民党は与党に返り咲きますが、2016年の総選挙で国民党は大敗し、民進党は単独過半数の与党になり、初の女性の総統も生まれました。